アメリカ西海岸、シアトルのお隣ベルビューにいます

2018/11/04

平静を保つために

褒めよう」という記事を書いた。

褒めたって誰も損しないし、タダで幸せな気分になるからいいじゃない、という話だったんだけど、これを書いている途中で、この記事のことを思い出した。

赤ちゃんは泣くものだ

電車の中での赤ちゃんの泣き声が許せないあなたへ|アメリカはいつも夢見ている|渡辺由佳里|cakes(ケイクス)
現在、有料会員しか全文読めないのだけれど、最後はこんな風にまとめられている。
泣く赤ちゃんとその母親に対して怒っても、何も解決しない。解決しないことにさらに苛立って怒鳴りつけても、怒りが雪だるま式に膨らんで、自分の人生を暗くするだけだ。何の得もない。

泣く赤ちゃんのお母さんに「あやしてあげましょう」と言える人はすばらしいと思う。お母さんに「大変ですね」と寄り添ってあげるだけでもその場の雰囲気は随分良くなる。そういうことができる人が増えてほしいと心から願う。

でも、全員がそこまでできる必要はないと思う。そのほかの人は、「赤ちゃんは泣くものである。自分には何もできない」と言い聞かせ、瞑想の良い機会だと思ってくれるだけでいい。

そして、せっかくだからこの機会に自分にあった対応策を考えてみよう。誰のためでもなく、自分のために。
「褒めてくれないとやる気でないんだよね」
という私のボケた話にも教訓となる。
「私はただ作業をするだけ。相手の反応は私にはコントロールできない」

無力であることを知る

「赤ちゃんは泣くものである。自分には何もできない」
この言葉の力強さ。
そう、「自分は無力であり、何もできない」と認識すると、公共の場で赤ちゃんを泣かせたままあやそうともしない親を見ても、
「赤ちゃんは泣くものだし、私には何もできない」
で解決する。すごい。
だいたい、さんざんあやしてどうにもならなくて、ぼんやりたたずんでいるだけなのかもしれないし、放っておいた方が早く落ち着くと思って放置しているのかもしれないし。そんなのその子の親にしかわからないわけで。
他人に申し訳なさそうにするためだけに赤ちゃんをあやすんだとしたら、それはもう本末転倒だよね。

この記事の後半、渡辺さんとそのだんなさんは、ふだんから集中したいときやリラックスしたいときのルーチンを作っていて、「自分では解決しようもない出来事」が起きた時にはそのルーチンを使ってリラックスできるようにしている、とつながっている。
それが「せっかくだからこの機会に自分にあった対応策を考えてみよう。誰のためでもなく、自分のために。」につながるのだ。

自分にできること

世の中にはどうにもできないことってたくさんあって、その最たるものは「他人の気持ちや行動」である。自分の子供であっても自分の思い通りにはいかない。
他人にはどうしても「自分にとって都合のいいように行動すべき」と期待しがちなんだけど、そんなのは自分の勝手な認識であり、基本的には他人は自分の都合のいいようには行動してくれないものだ、と期待しないことが大事なんだろうな、と思う。

アメリカに住んでいると、どうせ私たちは移民だし、そもそも分かり合えないと思って何となくやり過ごしているところはあると思う。そういう意味では、他人に対してそんなに期待しないことに慣れているともいえる。実際、何かの手続きがスムーズにいくと「アメリカじゃないみたい」と思うしね(笑) そもそもの期待値が低くて。
でも逆に、日本人同士では、はっきりと日本人としての規範を余計期待してしまうところがあるんじゃないかと思うことがある。海外にいると、否応にも「日本人」を意識せざるを得ないし。
気持ちはわかるけれど、もうちょっと寛容になれないものかな、といつも思います。

補習校での息苦しさは、そういうところから来るのかもしれないな。

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