Several decades ago...
私が大学を卒業したのは、ちょうど地下鉄サリン事件の起こった年である。ちょうどその日は私の引っ越しの日で、当時付き合っていた彼に駅まで車で送ってもらう途中のラジオニュースでその事件を知った。こんな恐ろしい東京に引っ越して大丈夫だろうかと不安になったのを覚えている。
つい先日、私の卒論の担当教官とメールのやり取りをした。
サークルの後輩が、たまたま先生の研究室出身で、彼女はそのまま大学院に進学して今ではとある大学で研究職についており、恩師である先生とも太いパイプでつながっていた。噂ではご活躍を聞いていたのだけれど、彼女から、この春でその先生も退官するという話を聞いた。
恩師と連絡を
細かいいきさつはともかく、先生の退官をきっかけに、このたび20余年ぶりに先生と連絡を取るチャンスを得た。私は学部卒である。バカな大学時代を過ごし、たいして勉強もせずに、卒論だけはかなりがんばって書いたけれど、結局卒論発表会で当時の教授にぼろくそに言われて、成績も「B+」という微妙な結果に朽ち果てた。悔しかったので、よく覚えている。
院生でもなければ、担当教官がただの学部卒の人間を覚えてくれている確率は低い。しかも先生にお世話になったにもかかわらず、さんざんな結果だったのだ。でも、私自身はその先生の授業が大好きだったし、先生の話は面白かったし、研究内容も最後はのめりこんで勉強したし、退官のお祝いをとメールをしたのだった。
ところが、私の意に反して、先生は私のことをよく覚えてくださっていた。しかも、卒論発表会でぼろくそに言われた私の論文(と呼べる代物ですらないが)を、私が卒業した後も授業で引用し続けていたというのである。
どこにそんな魅力的な部分が!(感涙)
学生に「教育社会学」という学問を知ってもらうのに、ちょうどよい研究資料だったんです、とても貴重な内容だったんですよ、と先生からのメールにはあった(感涙)。
ちょっとだけ説明させて
おそらく私の専門なんて全然興味ないと思うけれど、私の専門分野は「教育社会学」という社会学の一種であった。恥ずかしながら、教育学部出身なのであるが、それを言うと「学校の先生?」「教員免許持っているの?」「教育のエキスパートだね」などと言われてしまう。全然違うのだ(だから恥ずかしくて言えない)。
実は、社会学と教育学というのは考え方が対極にある(と教わった)。
教育学は個人にフォーカスしているが、社会学はその名の通り社会にフォーカスしている。具体的な例でいえば、「子供を東大に入れるためにどんな教育を施したらよいか」と考えるのが教育学で「東大生の家族や親せき構成、世帯収入、親の学歴等々の環境を調査してどのような要因が東大生にかかわりが深いか」といった研究をするのが教育社会学である。だから、そういう学問的観点から言えば、私の興味は息子にはない(親としては、当たり前だけれど、大いに興味がある)。
教育は人生を豊かにする
と、小難しい話はどうでもよくて(よくはないけど)、今こうやって海外で多言語教育と母語の発達、海外子女のアイデンティティなどに興味を持っているその原点は、やはり大学での教官の指導が良かったことや、扱った題材が運命的だった、そもそも「教育社会学」という分野を知った大学生活だった、と思い至ったのである。指導教官からの温かい言葉に涙が止まらないんだけど、その点から言えば、私のバカバカしく薄っぺらい大学生活も、実は私の未来において大きな意味があったと思えた瞬間であった。
もちろん、全然収入には直結しないし、それがわかったからといって何か生活に役に立つのか、と言われれば全くない。悲しいくらい。でも、無駄なことがすべて悪ではなく、その無駄なことが人生を豊かにし、人を幸せにすることもありうるということだ。
昨今の日本で、大学教育が「役に立つ・立たない」で判断されるのは、本当にナンセンスだと私は思う。
教育は未来
ここで思うのは、やはり「教育」は未来だ、ということ。「教育」そのものは、長い時間をかけて結果が出るものだし、その結果も「成功・失敗」と簡単に割り切れるものでもない。でも、「教育」が未来を作っているのは間違いない。
私は幸いにも子供に恵まれて、自分で人を育てるチャンスを得られたし、実際に自分が学んできたことをこうやって確認する作業もできる。幸せなことだ。
海外生活は、特に成長期の子供にとっては大変な苦労だと思う。
でも、息子にとってこの経験が未来につながるように、私も情報を取捨選択する目と耳と感覚を養って全力でサポートしたい。親なんて、所詮チャンスを与えることくらいしかできないから。
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