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2019/04/26

上野千鶴子先生の祝辞

補習校でも先日、入園式・入学式があった。
みなさんおめでとう!これから、長い教育期間が始まります。
ようこそ、学問の世界へ!心も体も豊かに成長されることを願っています。

東大入学式の祝辞

東大の入学式での祝辞が話題となっていた。

 (全文) 平成31年度東京大学学部入学式 祝辞 | 東京大学

上野千鶴子先生は、私の学生のころにはすでに著書もたくさん出されていて、ちょうど卒論を書いている頃に何冊か読んで感銘を受けていた。
その先生が、それから20年以上経て、こうやって東大という日本で最高学府と言われる大学で祝辞を述べていらっしゃる。

素晴らしい祝辞だと思った

上野先生は、「女性学」や「ジェンダー論」などで有名ではあるのだけれど、大きくは「社会学者」である。私のメジャーである「教育社会学」と考え方のベースとなる部分は同じなのだ。「社会が個人を規定する」という話である。

大学時代の恩師」で書いたとおり、つい最近、私は退官される私の担当教官にメールをして、感動のあまり涙が止まらなくなる、という経験をしたばかりだった。
それがまた、この上野先生の祝辞を読んで、やっぱり涙が止まらなくなってしまった。なんと素晴らしい祝辞だろう。

でも、もしかすると、若い学生さんには、先生の本当のところは伝わらなかったかもしれない。まだ、自分がマイノリティの体験に乏しいから。同様に、もし、私がアメリカの富裕層の白人男性だったら、全然気づかなかったことがたくさんあるだろうと思う。幸か不幸か、私はアジアの小国日本のお金のない中年女性で現在アメリカに住んでおり、だからこそ気づいたことがたくさんある。
先日のイチローの引退会見の時の発言にも自分のことのように共感した。
帰国子女のキラキラじゃない部分

こんなに素晴らしい

世の中にはたくさんの差別があって、努力だけではどうにもならないことにあふれているんだよ、という前半部分ばかり話題になっていたみたいだけれど、それはただの枕であり、彼女が本当に言いたかったことは後半部分に集約されていると思う。これを強調するために、前半かなりの部分を割いて、たくさんの事例と共に社会の不条理不公平を説いている。
それを経ての、この内容。
あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。
「がんばれば報われる」と思えるのは、そういう環境にあなたが置かれていたからです、そして、それはとても恵まれていることなのです、と言っている意味は深いと思う。
お金がなかったり、自由がなかったり、理解がなかったり、いろんな理由で自分の選択肢を阻まれ、そもそも努力する道が絶たれている人もいる。
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。
ここに対して、「上野先生は裕福な出身のくせに」と絡んでいる人を見かけたのだけれど、だからこそ、先生はご自分が恵まれていたと自覚されているからこそ、女性学のパイオニアとして踏ん張ってきたのではないかと思う。昔なかった学問が、今学問として認められているのは、彼女のようなパイオニアが体を張って戦ってきた結果である、と彼女も述べている。
そしてこんな風に結ぶ。
大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です。ようこそ、東京大学へ。
これはもう、涙なしには読めなかった。
なんと素晴らしい祝辞。未来ある若者への大いなる期待とエールが込められている。

東大にはどのような出自の生徒が来るのだろう

さて、上野先生も祝辞の最初の方で「統計は大事です、それをもとに考察が成り立つのですから。」と言っている。
先生が「恵まれた環境」と言っているのは、どういった環境を指しているのだろう?
少し前のデータなのだけれど、とても興味深い記事が。
データえっせい: 東大生の出身地域の偏り
データえっせい: 東大生の家庭の年収分布
データえっせい: 東大生の父母の職業

これこそが「本人の努力ではない部分」である。
乱暴だけれど、おおざっぱにまとめると、東大生の環境は、
1. 関東、特に東京に住んでいる
2. 家庭年収は900万円以上
3. 親の職業は、管理職または専門・技術職(医者とか)
であることが多い、ということである。この結果は、(大学生の親世代である)4~50代の平均とは様子が異なることは感覚としてもわかる。
もちろん、そういう環境を与えれば東大生になる確率があがる、ということではない。でも、そういう環境が東大生を作る一因になりうるということは読み取れる。

人はよく「努力が足りないからだ」とか「能力不足」とか簡単に言うけれど、世の中そんなに単純ではない。
人に「能力」があるかどうかを測るのは、結局人間自身なので、その人間が「偏見」を持っている以上、公正な判断がされるわけではない。そして、何をもって「公正」と言えるかも、人間が基準となる。

小さい頃から塾や習い事など、教育にお金をかけてもらえ、大学に進学することは前提として育てられ、そのために必要なものが与えられた子供が東大を目指すのと、家庭が貧乏で教育にかけられるお金もなく、高校までは何とか進学させてあげられるけど、その先はできれば家にお金を入れてほしい、と長年言われつづけてきた子供とでは、そもそものスタートラインが違う。これは努力云々ではない。

単純に、「本人が努力してきたから東大に合格できた」という話ではないことがわかる。

だから、「持てる」人間が「持たざる人間」を見下したり貶めたりするのではなく、そういう人たちと共に生きる道を探そう、と上野先生が祝辞で述べた意味は深い。そして、その先はこれまでにない新しい学問の領域であるかもしれない。

参考までに、さらにパンチのきいたこんな内容も。
データえっせい: 体験格差

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