先日、子供の読書習慣についてのイベント(日本語)があったので、参加してきた。
読書についてもそうだけれど、思った以上の気づきがあった。
テーマは子供の読書習慣についてだったのだけれど(子供が本を読まない、逆に読みすぎる、兄弟そろって楽しく読める本はないか、等々)
読書といっても英語の本ばかり、日本語を読むのは補習校の宿題のためだけ
という話から発展して、
どちらの言語で読んだとしても、子供の選択は尊重したい
というニュアンスの話になっていった。
そもそも、100年くらい前の日本にはそれほどたくさんの本がなかった。紙もなかったし。イソップ童話にしてもそうだけれど、昔から読書の習慣があったわけではなく、そこには「物語」や「寓話」「伝説」があり、それらの多くは口伝での伝承だった。
お話の世界は、他人との時間の共有であり、目に見えないものを想像力で補っていくことである。
読書が心を豊かにする、というのは部分的に正しいけれど、実際には物語にこそ力がある。耳から聞いて想像力を働かせ、自分の心に落とし込む、その作業が心を育んでいく。
その「読書の本来の目的」に立ち返って考えた時、言語はその時子供が一番理解しやすい言語がいいのではないか、別にどちらを選んでも構わない、子供が読みたがるのであれば。そこは子供の選択に任せるべきなのでは。
私もそこは「はっ!」とする話だった。
補習校の宿題で音読をするわけだけれど、中には音読が苦痛で仕方のないお子さんもいるかもしれない。その流れで「日本語の本を読みなさい」と言ってしまうと、読書自体が嫌いになってしまうかもしれない。トラウマとなって、どの言語の本も嫌いになってしまうかもしれない。
本が嫌いになってしまうことは、ひとつの損失である。「本を読まない」と「本が嫌い」の間にはアリとゾウくらいの隔たりがある。「本を読まない」子には、チャンスがあれば読みだす時期が来るかもしれないが、「本が嫌い」な子が自ら本を手に取ることは難しいだろう。
その方のお子さんは特に読書が好きなわけでもなく、そしてご本人もそれほど本に関心はなかった。けれど、ある時「高校生でも読み聞かせするといいですよ」という話を聞きかじって、当時高校生のお子さんに読み聞かせをしてみたそうである。そんな大きな子供が素直に聞いてくれるか、ご本人も確証はなかった。
「でも、娘と本を通して時間を共有している、という感覚がとても幸せでした。これは発見でした。」
その時の経験がきっかけだったのかわからないけれど、その後の親子関係もかなり良好だったそうである。
子供と時間を共有する
いい言葉だなぁ、と思った。
別に話すことがなかったとしても、音読すれば会話はなくても困らない。それどころか、同じ物語と同じ時間を共有するなんて素敵だ。
以前出席したイベントでも、講師が「小さい時に読んでもらった、親の声とどの言語で読み聞かせてもらったか、が思春期の子供の心の安定に大きな役割を果たす」と言っていたのを思い出した。
【講演会】海外・帰国生への期待と帰国後の教育の実情 - 2 -
自分はアメリカでは日本人としてみられ、マイノリティだ。でも、日本のことをほとんど知らない。日本に帰れば「ふつうの日本人じゃない」と言われる。一般的な同年齢の日本人とは話がかみ合わない。知っているべき文化や習慣も知らない。
どちらの国にいても自分は異邦人だ。
これがアイデンティティ・クライシスである。
言語として、英語と日本語、どちらが得意になるか、とは別問題である。
どんなにアメリカの文化に精通していたとしても、人生の大半をアメリカで過ごし、英語の方が日本語よりずっと流ちょうかつ楽に話すことができたとしても、自分はアメリカ人だと思っていたとしても、周りはそう思ってくれない。
アメリカ人としての人生を選ぶか、日本人としての人生を選ぶか、とそういう簡単な話にはならない。
補習校の高校卒業生の中に、
「今までたくさんの友達ができたし、これからもできると思うけれど、補習校での友達は一生大事にしたい。自分の本当の友達は、自分が安心できる友達は、補習校の友達以外ありえない」
と言っていた人がいたそうである。
アメリカ人にも日本人にもなれない自分と同じ境遇にいる補習校の友達。
大半の子供は親の都合で海外暮らしを余儀なくされ、この境遇も自分で選択したわけではない。それなのに、同じ世代の子供たちよりも過酷な状況を生き抜いてきたのである。その魂の部分を分かち合えるのは、やはり同じ境遇の人しかいない、そう考えるのはとてもよくわかる。
海外の日本人学校や、補習校、日本での帰国子女クラスなどの出身者に聞くと、同窓生同士のつながりが強いな、と思うことがしばしばある。こういう境遇を共に乗り切った同志のようなものかもしれない。
それはとてもよくわかる。
もちろん、補習校になじめなくて去っていったお子さんもたくさんいらっしゃる。
それほど仲の良い友達もいなければ、続ける意欲も失うし、実際、年々仲良しが去っていくのを送り出し続けていると、こちらの心も折れそうになる。うちの息子はいつまで通ってくれるだろう…
自分は日本人として生きていくことを選んだはずだったのに、なぜか結婚したらアメリカに来てしまって、自分の人生なんてどこで転ぶかわからない、自分の選択だってその時々によって変わる、という貴重な話をしてくださった。
中でも、言われてみたらその通りだ、と思ったのが
「私の同級生の中に、子供を持った時に子守歌が一つも歌えない、と悩んでいた人がいたんです」
という話だった。
自分は人生の大半をアメリカで過ごしてすっかりアメリカ人のようになってしまったけれど、ふと気づくと、自分は日本人家庭で育ったからアメリカ人が当然知っている子守歌を知らない、かといって日本の歌も全然知らない、子供を寝かせようと思った時に自分が何一つ歌えなくてびっくりした、ということだった。
まあ、子守歌に限らず、最近の日本の子供は私たちの世代よりももっと童謡を知らないんじゃないかと思うので、もしかしたら日本でしか生活したことのない人でも子守歌を歌えないかもしれないんだけど、子育てする段階になって、突然「私は子供に歌ってあげられる歌を知らない」という問題を突き付けられるのは、しんどいだろうと思う。
たとえば、自分のことを考えてもそうだ。
日本に帰った時に、何の気なしに「アメリカだったらこうするのに」とつい思ってしまったり口に出してしまったり。それが周りの顰蹙を買ってしまったり。
逆にアメリカで生活していて「日本だったらこうしてくれるのに」と思ってしまったり。
これも大きくとらえれば、アイデンティティ・クライシスの一つだ、ということである。
もちろん、子供たちほど深刻ではない。
成人するまで日本にいたわけだから。根底には「自分は日本人である」という確固としたものを持っている。
今日本に帰って日本で生活を始めれば、一般的な日本人としてふるまうこともできると思う。でもやっぱり、海外でマイノリティとして過ごした経験は、経験として自分の中に蓄積されてしまった。長い年月とともに薄れていくにしても、おそらく、心の奥底では海外生活したことのない人とは分かり合えないだろうな、というのはなんとなく感じている。
イチローも言っていた。
「外国人になったことで人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れたんです」
本当にこれに尽きる。
現在放送中のドラマ「きのう何食べた」、観ています?
うちは日本にいた時はモーニングを購読していたので、私は連載初めから読んでいた。
ドラマ化するというので毎週わくわくしながらみているんだけど、この間、ふと
ああ、シローさんとケンジはマイノリティなのだなぁ
と(感覚として)気づいてから、妙に共感してしまうことが増えた。
わかってもらえない、でもがんばる、がんばりきれなくてあきらめる、それでも今の自分をやめることはできない。
これが「共感」なんだ、マイノリティにしか共感できないことを、私は共感できるようになったんだ、とはっきりわかった瞬間だった。
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読書についてもそうだけれど、思った以上の気づきがあった。
テーマは子供の読書習慣についてだったのだけれど(子供が本を読まない、逆に読みすぎる、兄弟そろって楽しく読める本はないか、等々)
読書といっても英語の本ばかり、日本語を読むのは補習校の宿題のためだけ
という話から発展して、
どちらの言語で読んだとしても、子供の選択は尊重したい
というニュアンスの話になっていった。
読書の目的は何なのか
「日本語!日本語!」と言っていると、見落としがちになってしまうのだけれど、そもそも読書の目的は何なのか、と基本に立ち返ってみる。そもそも、100年くらい前の日本にはそれほどたくさんの本がなかった。紙もなかったし。イソップ童話にしてもそうだけれど、昔から読書の習慣があったわけではなく、そこには「物語」や「寓話」「伝説」があり、それらの多くは口伝での伝承だった。
お話の世界は、他人との時間の共有であり、目に見えないものを想像力で補っていくことである。
読書が心を豊かにする、というのは部分的に正しいけれど、実際には物語にこそ力がある。耳から聞いて想像力を働かせ、自分の心に落とし込む、その作業が心を育んでいく。
その「読書の本来の目的」に立ち返って考えた時、言語はその時子供が一番理解しやすい言語がいいのではないか、別にどちらを選んでも構わない、子供が読みたがるのであれば。そこは子供の選択に任せるべきなのでは。
私もそこは「はっ!」とする話だった。
読書と言語は切り離して
一番良くないのは、「補習校の宿題」と「日本語の読書」を同じカテゴリーで話してしまうこと、だそうである。補習校の宿題で音読をするわけだけれど、中には音読が苦痛で仕方のないお子さんもいるかもしれない。その流れで「日本語の本を読みなさい」と言ってしまうと、読書自体が嫌いになってしまうかもしれない。トラウマとなって、どの言語の本も嫌いになってしまうかもしれない。
本が嫌いになってしまうことは、ひとつの損失である。「本を読まない」と「本が嫌い」の間にはアリとゾウくらいの隔たりがある。「本を読まない」子には、チャンスがあれば読みだす時期が来るかもしれないが、「本が嫌い」な子が自ら本を手に取ることは難しいだろう。
親の読み聞かせ
すでにお子さんが成人されている方のお話が、とても素晴らしかった。その方のお子さんは特に読書が好きなわけでもなく、そしてご本人もそれほど本に関心はなかった。けれど、ある時「高校生でも読み聞かせするといいですよ」という話を聞きかじって、当時高校生のお子さんに読み聞かせをしてみたそうである。そんな大きな子供が素直に聞いてくれるか、ご本人も確証はなかった。
「でも、娘と本を通して時間を共有している、という感覚がとても幸せでした。これは発見でした。」
その時の経験がきっかけだったのかわからないけれど、その後の親子関係もかなり良好だったそうである。
子供と時間を共有する
いい言葉だなぁ、と思った。
別に話すことがなかったとしても、音読すれば会話はなくても困らない。それどころか、同じ物語と同じ時間を共有するなんて素敵だ。
以前出席したイベントでも、講師が「小さい時に読んでもらった、親の声とどの言語で読み聞かせてもらったか、が思春期の子供の心の安定に大きな役割を果たす」と言っていたのを思い出した。
【講演会】海外・帰国生への期待と帰国後の教育の実情 - 2 -
日本とアメリカの狭間でもがく子供たちのアイデンティティ
英語の本ばかりで、という話から、子供のアイデンティティの話に発展した。自分はアメリカでは日本人としてみられ、マイノリティだ。でも、日本のことをほとんど知らない。日本に帰れば「ふつうの日本人じゃない」と言われる。一般的な同年齢の日本人とは話がかみ合わない。知っているべき文化や習慣も知らない。
どちらの国にいても自分は異邦人だ。
これがアイデンティティ・クライシスである。
言語として、英語と日本語、どちらが得意になるか、とは別問題である。
どんなにアメリカの文化に精通していたとしても、人生の大半をアメリカで過ごし、英語の方が日本語よりずっと流ちょうかつ楽に話すことができたとしても、自分はアメリカ人だと思っていたとしても、周りはそう思ってくれない。
アメリカ人としての人生を選ぶか、日本人としての人生を選ぶか、とそういう簡単な話にはならない。
補習校の高校卒業生の中に、
「今までたくさんの友達ができたし、これからもできると思うけれど、補習校での友達は一生大事にしたい。自分の本当の友達は、自分が安心できる友達は、補習校の友達以外ありえない」
と言っていた人がいたそうである。
アメリカ人にも日本人にもなれない自分と同じ境遇にいる補習校の友達。
大半の子供は親の都合で海外暮らしを余儀なくされ、この境遇も自分で選択したわけではない。それなのに、同じ世代の子供たちよりも過酷な状況を生き抜いてきたのである。その魂の部分を分かち合えるのは、やはり同じ境遇の人しかいない、そう考えるのはとてもよくわかる。
海外の日本人学校や、補習校、日本での帰国子女クラスなどの出身者に聞くと、同窓生同士のつながりが強いな、と思うことがしばしばある。こういう境遇を共に乗り切った同志のようなものかもしれない。
それはとてもよくわかる。
もちろん、補習校になじめなくて去っていったお子さんもたくさんいらっしゃる。
それほど仲の良い友達もいなければ、続ける意欲も失うし、実際、年々仲良しが去っていくのを送り出し続けていると、こちらの心も折れそうになる。うちの息子はいつまで通ってくれるだろう…
子守歌が歌えない
元補習校生だった、という方も参加されていた。自分は日本人として生きていくことを選んだはずだったのに、なぜか結婚したらアメリカに来てしまって、自分の人生なんてどこで転ぶかわからない、自分の選択だってその時々によって変わる、という貴重な話をしてくださった。
中でも、言われてみたらその通りだ、と思ったのが
「私の同級生の中に、子供を持った時に子守歌が一つも歌えない、と悩んでいた人がいたんです」
という話だった。
自分は人生の大半をアメリカで過ごしてすっかりアメリカ人のようになってしまったけれど、ふと気づくと、自分は日本人家庭で育ったからアメリカ人が当然知っている子守歌を知らない、かといって日本の歌も全然知らない、子供を寝かせようと思った時に自分が何一つ歌えなくてびっくりした、ということだった。
まあ、子守歌に限らず、最近の日本の子供は私たちの世代よりももっと童謡を知らないんじゃないかと思うので、もしかしたら日本でしか生活したことのない人でも子守歌を歌えないかもしれないんだけど、子育てする段階になって、突然「私は子供に歌ってあげられる歌を知らない」という問題を突き付けられるのは、しんどいだろうと思う。
アイデンティティ・クライシスは子供だけの問題ではない
この話の流れで「実はこれは子供だけの問題ではないと思うのです」と参加者の一人がおっしゃった。たとえば、自分のことを考えてもそうだ。
日本に帰った時に、何の気なしに「アメリカだったらこうするのに」とつい思ってしまったり口に出してしまったり。それが周りの顰蹙を買ってしまったり。
逆にアメリカで生活していて「日本だったらこうしてくれるのに」と思ってしまったり。
これも大きくとらえれば、アイデンティティ・クライシスの一つだ、ということである。
もちろん、子供たちほど深刻ではない。
成人するまで日本にいたわけだから。根底には「自分は日本人である」という確固としたものを持っている。
今日本に帰って日本で生活を始めれば、一般的な日本人としてふるまうこともできると思う。でもやっぱり、海外でマイノリティとして過ごした経験は、経験として自分の中に蓄積されてしまった。長い年月とともに薄れていくにしても、おそらく、心の奥底では海外生活したことのない人とは分かり合えないだろうな、というのはなんとなく感じている。
イチローも言っていた。
「外国人になったことで人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れたんです」
本当にこれに尽きる。
現在放送中のドラマ「きのう何食べた」、観ています?
うちは日本にいた時はモーニングを購読していたので、私は連載初めから読んでいた。
ドラマ化するというので毎週わくわくしながらみているんだけど、この間、ふと
ああ、シローさんとケンジはマイノリティなのだなぁ
と(感覚として)気づいてから、妙に共感してしまうことが増えた。
わかってもらえない、でもがんばる、がんばりきれなくてあきらめる、それでも今の自分をやめることはできない。
これが「共感」なんだ、マイノリティにしか共感できないことを、私は共感できるようになったんだ、とはっきりわかった瞬間だった。
↓うちの息子は口の両端を引っ張って「がっきゅう○んこ!」と連呼していた。めちゃめちゃ日本のアホ男子っぽい。ポチッとしていただけたら嬉しいです↓
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